「祈りへの応答」 2017年10月15日 CS中高科説教原稿


1 前振りとしての聖書の読み方の提案

 今朝のお話の本題に入る前に、最近、聖書の読み方について思っていることを少しお話ししたいと思います。

 私たちが聖書を読むのは、単に古い文書を読んで昔の歴史や人々の暮らしや考え方を知りたいからではありません。

 そうではなくて、信仰の書として、神様の恵みをいただきたいと思うから聖書を読むのです。
やや膨らまして言うなら、苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、つまり誰かに助けて欲しい、支えて欲しいと思うから読むのだ、ということです。

 そういうときに読む書物が聖書だとすると、その読み方としては、信仰に生きた先輩たちの記録として読むことが、そうした目的に一致する、信仰の書にふさわしい読み方だと、最近、気がつきました。

 キリスト教は現世利益の宗教ではありません。

 イエス様を信じていれば、病気にならないとか、お金が儲かるとか、そんなことはありません。
むしろ、イエス様を信じていても、重荷や苦労が与えられますが、そういうときには、祈りながら神様の御心を尋ねるようにと聖書は私たちに奨めていますので、皆さんが大きな選択を迫られたときには是非そうして欲しいと思います。
 そして自分が祈っているときには、信仰の先輩たちの祈りに神様がどうお答えになったのか、そのことを知りたいと思うでしょうし、その多様な祈りと応答の歴史を教えてくれるのが聖書なのです。

 だから、私は特に明示的に書かれていない限りは、聖書の登場人物は日々、祈りを通して神様と対話しながら暮らしていたという前提で読んでいくようにしようと思っています。

 そして、今日の聖書箇所に登場するアブラムやロトもまた、そのように祈りつつ御心を求めたことが暗黙に前提されている、という読み方をしたいと思っています。

2 今日の聖書箇所を見る視点を設定する

 さて、そこで今朝の聖書箇所ですが、皆さんにどんなお話をしようかと、色々と考えているウチに、ここはアブラムが甥のロトに自分の土地を選ばせるという話なんだなぁ、と気がつきました。

 アブラムは人生経験豊かなオジサン、ロトは元気いっぱいだけれどまだまだ修行中の若者、と考えると、今時の世の中で、卒業後の進路についてあれこれ話をしている親子の姿になぞらえて考えると分かりやすいかな、と思いました。

 中高生の皆さんには、進路の問題というのは常に頭の片隅にある話かな、とも思いますが、ここで自分の高校進学の時のことについて昔話をしようと思います。

3 自分の回顧談をロトに重ねる

 私は中学3年の時は北海道の札幌に住んでいて、自宅の近く、歩いて通学できる公立高校と、函館の全寮制の私立高校を受験しました。

 私としては、見ず知らずの子と相部屋暮らしになるような全寮制の学校は最初から願い下げ、という気持で、もし公立高校に落ちたら中学浪人もやむなしと思っていましたが、結果としては両方とも合格でしたので、勿論、住み慣れた自宅から歩いて通える公立高校を選びました。

 ちなみに、その公立高校は、教団の月寒(ツキサップ)教会の近所にあって、実は私はその教会の附属幼稚園に通っていました。

 その頃は日曜学校にも通っていて、幼稚園でも日曜学校でも祈ることの大切さを繰り返し教えられました。

 しかし、祈っても神様は答えて下さらない、という思いが子供心に強くなって、日曜学校はやめてしまいましたし、高校生になる頃には自分の暮らしや世の中を変えるためには暴力を用いることも視野に入れた社会革命が必要だと考えるようになっていましたので、高校を選ぶときに祈ることなどは勿論しませんでした。

 今の私としては、祈りに神様は答えてくれないと結論を出す前に、本当に真剣に祈ったか、夜を徹して断食して祈ったのか、と当時の自分に尋ねてみたい気がしますが、しかし、驚くべきことにそんな私ですら神様は常に顧み、守って下さったと思っています。

4 主は祈りにどう答えたか

 さて、お話が脱線しましたので、今日の聖書箇所に立ち返るとアブラムもロトもこの大事な選択を迫られたこの場面で、祈って御心を尋ねたはずだと思います。

 そして、そのように祈ってなされた選択について、神様がどのようにお答えになったかというと、今日の箇所の終わりのあたり、14節以下にある神様の祝福の言葉として示されています。

 ちなみに、この祝福の言葉はアブラムに対するものですが、ロトもその一族であると言うことを考えると、間接的にはロトに対する祝福でもあると思いたいところです。

 実際にも、この後の方を読むとアブラムもロトもそれぞれ様々な苦労を経験しますが、しかしそれでも、主の恵みに預かりながら天寿を全うしたことが書かれています。

 つまり、この一連の土地の分配の物語を通しても、私たちは祈りながら御心を尋ねることの恵みを味わい知ることが出来るのです。

5 中保者イエス様を通した祈りへの応答

 勿論、アブラムに示されたような神様の祝福の言葉が私にも示されたと言うことではありません。

 しかし、今、私は毎週の礼拝に招かれています。

 また、教会の奉仕のいくつかに用いていただいています。

 そういうなかで、最近、やっと分かってきたような気がしていることがあります。

 もし、私たちが祈って神様のお考えを尋ねたときに、私たちの願い求めること、あるいは私たちの選択が御心にかなうならば、神様は私たちを礼拝に招くことで、その御心を示されるのではないか、ということです。

 アブラムのように祝福の言葉を直接、神様からいただくことは私たちには難しいかもしれません。

 でも、私たちは毎週の礼拝を通して、また、家庭においては聖書を開いて御言葉に学び祈ることによって、御心に従って歩んでいることを確認できるのではないかと、と思っています。

 そして、一番大切なことは、アブラムやロトの時代にはなかった神様の恵み、つまり、イエス様の受難と復活という神様からの劇的で明確なメッセージが今の時代を生きる私たちには与えられていると言うことです。

 もう少し詳しく言うならば、イエス様が神様との間に立って、執り成しをしてくださるからこそ、かつての私のように神様を全く忘れていた罪深い者であっても、大胆に神様に向かって歩み寄っていくことが許されているという、大きな神の恵みが私たちには与えられているのです。

 私たちは今日の聖書に描かれた神様との対話の歴史のひと幕を通して、そのことを改めて思い出して、感謝したいと思います。

 祈ります。

 今朝、アブラムとロトの土地の分配を巡る物語が、私たちの救い主、イエス様の恵みを指し示していることを学ぶことが出来ました。

 どうぞ私たちが人生の大きな分かれ道に立ったときに、必ず神様のことを思い起こし、祈りによって御心を尋ね、賛美と礼拝の中で御心をお示し下さい。

 この一言の祈りを私たちの執り成しの主、イエス様の御名によってお献げいたします。




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