ヨアブに一票!?~サムエル記下20章にまつわる愚考

 昨日の祈祷会ではサムエル記下20章を読みました。

 輪読後の意見交換の中で「私はヨアブに好印象を抱いています」という主旨のことを申し上げたら、同感の声が多くてちょっと驚きました。

 ただ、同時に不安になったので意見交換の終わり頃、「ヨアブもダビデも等しく罪人であって、それでも救われるという神様のメッセージとしてイエス様がこの世に来られたという福音的な読み方を大事にしたい」という主旨の発言をしたつもりですが、上手にお話しできませんでした。

 なぜ、上手にお話しできなかったというと、自分の中に聖書を深読みした部分があって、そこを割愛して申し上げたからです。

 以下は、まったくの想像であり、それこそ単なる深読みのお話なのですが、ということでお読み下さい。

 いつの時代でも権力者のもとでは様々な派閥ができあがって、互いに勢力争いをするものだと思います。

 まして、ダビデが束ねていた王国は12部族の集まりであって、境界争いや水争いなどの対立と利害得失があったはずです。

 また、ヨアブに代表される古参の臣下もいれば、その後に加わった臣下たちもいたでしょうし、それぞれに優秀な人もいれば狡猾な奴もいたはずであり、ひょっとするとダビデはそれらのグループを互いに拮抗させることで権力の安定を図っていたのかもしれません。

 そういうなかで、ヨアブは最大勢力たる軍の指導者であり、軍事クーデターによってダビデに取って代わることを常に兄弟たちや取り巻き衆から焚きつけられていた可能性もあると思います(そしてそれをダビデに耳打ちする者もあったでしょう)。

 そういうヨアブの立場になってみると、次の王を狙うにしても、ダビデ政権のナンバー2の立場を維持するにしても、一貫性のある態度をとり続けると同時に、危機に際しては断固として立ち向かう姿を示してリーダーとしての資質をアピールする必要があった、ということだと思います。

 だから、ヨアブが密かに律法に従い続けたヒーローであり、ダビデが主に聞き従わない信仰を失った人物に成り下がったと考えるのは、あまりにも一方的であり、アマチャン過ぎると思うのです。

 では、そうした二人の相克をどう読むべきかというと、繰り返しになりますが、その時点においては、神様は二人がともに罪人としての自覚を持つことを期待しておられたと思うし、さらにその後の人々の歴史をご覧になった神様がついには御子をこの世にお送りになって、すべての罪を洗い流すことを決断された、という大きな恵みの物語の一シーンとして読みたいですね・・・ということを申し上げたかったのでした。

 しかし、皆さんにそういう自分勝手な深読みをお話しするのは時間の無駄であり、それ以上に公の場にふさわしくないことなので、結局、思うところをうまく説明できなかった、ということでした。

 チャンチャン。

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