キリストの苦しみの欠けたところ

 今回、聖書通読をしてたくさんの発見に恵まれたと思っていますが、その中でもとりわけ大きな宝石が「コロサイの信徒への手紙」の第1章24節の次の聖句です。

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」

 こんなことを言うと、現在、求道中の人の気持を挫いてしまうかもしれないのですが、洗礼を受けるということは、「キリストの苦しきの欠けたところを身をもって満たす」ということなんだろうな、と気づかされました。

 でも、そこは逆に考えて欲しいと思うのです。

 つまり、今、自分が苦しんでいるとしたら、それはイエス様の受難の完成に自分も参加しているということであり、イエス様とともにすべての人の救済に奉仕しているんだ、と。

 だから、パウロは「あながたのために苦しむことを喜び」とすることが出来たんではないか、と思うのです。

 もっと早くこの聖句に出会っていれば、としみじみ思います。

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