「信仰」という「感動」

 キリスト教の信仰というのは瞑想や苦行を通じて得られる超自然的な経験ではありません。

 なぜなら、ごく一部の人にしか得られないような個人的体験に根ざした信仰は、すべての人に共有することは出来ないし、そのことを逆に言うと、神様にはすべての人を救済しようとする意思はない、と主張するに等しいからです(東アジアの仏教の伝統に沿って言うと、小乗的というのでしょうか)。

 だとすればデカルトが「方法序説」の冒頭で述べたような「良識」、つまり普通の人が行う普通の合理的な推論を通って行きつくことができるはず、ということになります。

 しかし、合理的な推論を積み重ねれば信仰に導かれるかというと、それも、ちょっと違うと思います。

 なんだか矛盾することを言っているようで、話がややこしくなってきました、スイマセン。

 自分の経験に即して申し上げるならば、合理的推論を追求することによって、十字架の根っこのところまでは、連れて行ってもらえると思います。

 だけど、その十字架の根っこから、イエス様を見上げて私たち(あえて「たち」と言いますが)が見いだすのは、合理的な推論を積み重ねれば絶対に犯さないような罪を、人間が犯し続けているという現実であり、そこで、私たちの合理的推論、「良識」の限界を発見することになります。

 だから、信仰は「AはBである」(たとえば「下部構造が上部構造を規定する」など)というような、いわゆる記号論理学的な命題の形で言い表すことは出来ません。

 では、どのような形で表されるのでしょうか。

 まず、十字架の傍らでイエス様の受難を見守った女性たちの深い嘆きと悲しみのうめき声として。

 しかし、その3日後に、甦りのイエス様に出会った女性たちの驚きと喜びの叫び声として。

 そして、その奇跡の出来事を述べ伝えられた弟子たちや多くのキリスト者の感動の声として。

 信仰は、本質的にはそのような深い「感動」の声として表されるしかない、と思います。

 ただし、実は、ここからが大事なところです。

 キリスト者がみんな、たとえばハリウッド映画のような「感動」をきっかけに信仰に導かれたか、というとそうではありません。

 もちろん、中にはそういう体験をなさった方もあると思いますし、実際に聖アウグスティヌスやC.ウェスレィの回心体験がキリスト者の間では知られていますが、しかし、冒頭にも言ったように、キリスト教の信仰は、超自然的な経験ではないのです。

 そうではなくて、聖書を学び、主日礼拝と日々の暮らしの中での祈りを通して与えられる「聖霊」によって、少しずつイエス様に似た姿に作り替えていただく、そのことの積み重ねの結果として与えられる、そういう性質の「感動」なのです。

 だからこそ、教会に行って祈りと賛美の群れに加わること、そこからすべてが始まるのです。

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