2017年6月25日 CS中高科説教原稿

〈課題聖書箇所〉
創世記 11章1~9

〈参考聖書箇所〉
使徒言行録 2章 1~12


 今日は、最初に、有名なバベルの塔のお話、つまりなぜ人々が様々な言語で話すようになったか、世界に言葉の壁が築かれたのか、その経緯と原因を聖書がどのように説明しているか、という部分を読んでいただきました。
 そして、それに続いて、そうした言葉の壁を乗り越える聖霊の働きを聖書がどのように描いているのか、を合わせて読んでいただきました。
 今年はたまたま6月の最初の主の日がペンテコステ、聖霊降臨をお祝いする主日で、その時に良く読まれる聖書箇所が実は、先ほど読んだ使徒言行録の中の聖霊降臨の出来事の箇所ですので、今日は6月の最後の主の日と言うこともあって読んでいただきました。
 この二つの箇所をこんな風に並べて読んでみると、言葉の壁を作り出したのも神様であり、同時にその壁を取り払って下さるのも神様であることを、聖書は私たちに伝えてくれていることが、ハッキリしてくると思います。
 これが今日の聖書のメッセージの核心なので、これで伊藤さんのお話は終わりです、としてもいいんですが、これでは物語の最初と最後の部分だけをお伝えして途中の紆余曲折を一切、説明省略してしまっているので、もう少し言葉を足したい、と思います。
 創世記の9章1節をどなたか読んでくれませんか?旧約の11ページです。
創世記 9章 1節
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。

 ついでに9章7節をどなたか読んでくれませんか?
創世記 9章 7節
あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」

 ここは先週、渡辺さんがお話ししたとこですが、神様のご計画は、ノアの子孫たち、つまり私たちが、いわば大きな大きな一つの家族として、世界中に広がっていくことだったということが分かります。
 しかし、人々は、世界に広がって行くどころか、その反対に一か所に固まって暮らそうとするわけですが、それでは人々が増えても、すぐに限界に達して、結局は土地や資源の奪い合いになってしまうでしょう。
しかも、神様の世界中に広がっていってほしいというご計画に反抗するように大きな塔を建て始めたので、神様は、彼らの言葉を混乱させて、いわば強制的に世界に散らばるように仕向けられた、ということが今日の聖書個所が私たちに伝えていることです。
 そして、やがて、イエス様が復活され、昇天され、ペンテコステの日に聖霊が下って、神様が作った言葉の壁が崩れ去るまでの間に、どんなことがあったか、という歴史が聖書には延々と書かれているわけですが、その歴史を読むと、神様と人々のかかわり方には二通りあって、一つは言葉、もう一つは裁きであることが分かります。
 まず、神様は繰り返し繰り返し、神様のご計画、神様の命令、具体的には律法に従うように人々に呼びかけられました。
 その呼びかけは、預言者と呼ばれる人々を遣わして、「言葉」によって行われました。
 その「言葉」による呼びかけに素直に、謙遜に従った人々には恵みが与えられましたが、その反対に、自らの力を頼んで高慢に、神様の言葉を退けた者たちには、例えば内乱で殺されたり、バビロンやエジプトなど近隣の超大国との戦争と敗北などの悲惨な結果、つまり「裁き」がもたらされました。
 つまり、旧約聖書の時代、もっと厳密に言うとイエス様が下さった血の契約の以前には、世間の親たちが子供を躾けようとする時と同じように、まずは言葉で言い聞かせたうえで、言うことを聞かない子は押し入れや物置に閉じ込めて懲らしめる、ということが繰り返されたということす。
 しかし、そうした繰り返しの最後の場面で神様は全く逆のことをなさいました。
 では、いったい何をなされたか。
まず、最初に「言葉」によって呼びかけをされたところは一緒です。
それは当然のことで、誰かにメッセージを伝えようとすれば、神様でも人間でも、まず、言葉によるしかないからです。
いきなり殴りかかってしまってはメッセージを伝えることはできないから、といってもいいかもしれません。
ここで、どなたかヨハネによる福音書の第1章の1節と2節を読んでくださいませんか。新約の163ページです。

ヨハネによる福音書 1章 1節、2節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。

 時間がないので、詳しい説明は省略しますが、ここでいう「言葉」とは、イエス様、とここはいったん読み替えてほしいのですが、つまり、イエス様はこの世の初めから神様とともにいて、いわば神様の最終兵器として2,000年前のユダヤの地にお生まれになったということを、このヨハネ福音書は私たちに説明しようとしているのです。
 しかし、私たちには自由意志があり、神様のメッセージに従うことも、退けることも許されているのと同様に、当時のエルサレムの人たちも、最終的には神様のメッセージ、つまりイエス様を退ける選択をしてしまいました。
 ここでちょっとだけ厳密にいうと、当時のエルサレムの人たちのうち、金持ちの人たちが神様のメッセージを退ける判断をし、貧乏な人たちを買収してイエス様を十字架に追い上げた、というのが事の真相だと思いますが、いずれにしてもこともあろうに、神様の分身であり、大事な一人息子を殺してしまいました。
 さて、そこで神様はどうなさったか。これまでのようにエルサレムの人々に裁きを下されて、皆殺しになさったでしょうか。
 しかし、そうはなさらなかった。
 結果として、紀元70年、イエス様の受難と復活から約40年くらい後にエルサレムはローマ軍によって徹底的に破壊され、焼き払われることになりますが、しかし、それはイエス様を殺したことの裁きではありません。
 では、神様はどうされたのか。
 ここでどなたかマタイによる福音書第26章27から28節節を読んでくれませんか?新約53ページです。

マタイによる福音書 26章 27~28節
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 これはどういうことでしょうか。
 このイエス様の新しい契約がなされるまでは、神様は、私たちが子育てをするときと同じように、まず、言葉で言い聞かせ、それでもダメなら実力行使をしてこられました。
 しかし、この度は、実力行使という点では全く同じですが、逆の方向のことをされたということです。
 いわば、いくら言い聞かせても聞かない子供に向かって、「よ~~く、分かった。お前のような出来の悪い子に育てたのは自分の責任だ。だから、お前に代わって自分が罰を受けることにする」と宣言したということです。
そして、実際に自分のたった一人の、しかもこの世の始めからずっと一緒にいた大事な子供を十字架につけてしまい、最後まで、見殺しされたということです。
 しかも、契約という言葉を使っていますね。
契約、というと堅い言葉ですが、約束と言い換えるとどうでしょうか。
今、自分を殺そうとしている人々の罪ばかりではなく、これまでの人々の犯した罪も、これ以降の私たちの罪についてもイエス様が引き受けて下さる、そういう約束して下さった、と私たちクリスチャンは信じているわけです。
 では、そこまで大きな犠牲を払ったうえで神様は、私たちになにを求めておられるのか。
 先ほど、ノアのメッセージに関連して、私は勝手に、神様のご計画は、ノアの子孫たちが大きな大きな一つの家族として、世界中に広がっていくことだったといいました。
 もちろん、これは私が勝手にいっていることで、本当の神様のお考えは聖書を読むほか知りようはありません。
 では、聖書はなんと述べているでしょうか。
 そろそろお終いにしますので、どなたかマタイによる福音書22章37節から40節までを読んでくれませんか?新約の44ページです。

マタイによる福音書 22章 37節~40節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 つまり、私たちには自由意志があるけれど、その選択は常に神様への愛と謙遜、そして隣人への愛に基づくべきだと、いうこと、逆に言えば、神様の言葉を退け、しかも自分の手を汚すことなく、隣人を利用して罪を行わせるような判断をしてはならない、というのが神様が尊き御子イエス様を殺してまで、私たちにお伝えになりたかったことです。
 中高生の皆さんは社会的な経験や知識見分が少ないので、本当にそんな卑劣で目を覆うようなことが世の中で行われているとは思わないでしょうが、日本や世界の動きを少し丁寧に見れば、実は決して絵空事ではない、といずれわかってくる日が来るでしょう。
 しかし、そうなった時に、ぜひ今日のお話を思い起こしていただきたいと思います。
 以上が今日お伝えしたいことですが、実は、今日のお話は不完全で尻切れトンボです。
 つまり、物語の最後の場面を説明していません。
 それは、イエス様は十字架の上で死んだけれど、三日目には復活されたということであり、そこには神様のメッセージに従って生きて、死んだ者は必ずイエス様のように復活するという、実は一番大事なメッセージが含まれているのですが、それはこれからの学びの中で、詳しくお話を聞く機会が与えられるものと思います。
 では、お祈りをしましょう。

 天の国の恵み深き神様。
 天の国の神様が、まさに生きて働く神様として、また、熱情の神様として、絶えず私たちに関わってくださり、呼びかけて下さっていることを感謝します。
 私たち一人ひとり絶えず、様々な判断、決断を求められて暮らしていますし、特に成長の過程にある若い人には判断に苦しむ場面の多いと思います。
 判断の回数が多ければ、間違った判断をする回数も自ずと多くなるはずですが、しかし、どうぞ、私たちが神様のメッセージを絶えず心に思い起こして、少しでも御心にかなった道を歩むことできるように助けてください。
 そして、私たちが誤った判断をしてしまって、罪を犯す結果となっても、その事実から目をそらすことなく、しっかりと悔い改めて神様にしかがって歩むことができるようにしてください。
 神様がご自分のマナコよりも私たちを大切に思ってくださっていることを信じつつ歩むことできるようにさせてください。
 この一言の祈り、私たちのとりなしの主、イエス様のお名前を通してお捧げします。




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